昨日は私の母校の最後のクリスマス茶会に出向いた
今年で廃校となる
部員は今では最終学年の3人のみ
斜陽という言葉が妙に頭から離れなかった
で、私はずっと門前の小僧をやっている
大学校で茶道部:部員では『ちゃぶ』の愛称で呼ばれていたが:に、お菓子につられて入部し、もともとのダボハゼ根性で2年間はハマって稽古に打ち込んだ。
先祖伝来の着物がちょうど良い寸法で、外内ともに『茶人』気分を楽しんだ
茶道をやっていくうちに、その内容の深さに歌劇にも似た総合芸術性を感じるようになった
茶道は、主客の礼儀、もてなしの心、禅・儒学、諸動作の流麗さ、道具類の見識、書、華道、茶の味、点心などの料理、庵の形式=建築などなどただの数畳の場所で無限の世界が広がっていく
稽古のうちに、それは囲碁などにも通じるものを感じるようになった
19×19のマス目で行われる、白黒の陣取り合戦
ところが戦のうちにその19×19が無限の石陣のように感じだす
白黒で違いのない石が、その一刻一刻で違う役割を演じ、さながら本物の戦のようになる
数畳の庵の中に、無限の星霜を感じる茶の湯も、それに近い感覚で見ることができる
その時の主客の面子、季節、時刻、道具、茶、菓子、いろいろなものとで一時として定まらず、無限の世界が広がる
伊井大老が一期一会を題目にしたのも、このあたりをさらに深く考えたからだと思った
で、昨日の茶会での話
師匠が、今の部員の話をしている中で
『お茶は人に見られることで大成する』といったことを言った
私はついつい、『いやそれはどうでしょう』と、いつになく茶の湯のことで師匠に言葉を返してしまった
というのも、それは常々、茶の湯の危うい側面だと思っていることだったからだ
形を奇麗に、そして主客があっての茶の湯と考えると、それはあながち間違いではないし、図に当たっていると思う
が、そこを茶の湯の入り口にしてしまうと、心の置き処が違って成ることが少なくない
その部分が大きくなれば、心配りができないのに事よせて大茶会を催したり、高価な道具の見せびらかし会になったりするのではないだろうか。
もともとは自分を引き締めるために『見られている』という意識付で、また稽古では相手の点前を見て自分が見取り稽古をしたり、相手に教えたりもするので、何の事もないのだけれど、門前の小僧である自分が多くの茶会で見てきた『偉い師匠連中』は、それをどこかではき違えたような人く、その度に減滅したものだった
今、社会人になり、稽古としては席に入っていない
それでも志は腐っていないと思っている
茶の湯は主客のこころであり、そして、容を極めることで大成すると思っている
容を極める、それは『神との対峙』であると言える
偶像崇拝のそれではなく、
たとえば『自分の心を偽ることはできない』と言ったとき、自分の心の中に内在する欺きがたい自分自身との対峙が、畏怖の対象となり、すなわち神である
自分自身との対峙のためには、それに見合う見識が必要となる
精進とはそういうものだと思っている
そして、エゴイスティックにならないためにも、見識は広く持つべきだとも思っている
稽古では、師匠連中の教絵は勿論、自分の持てる見識もフルに使い、
明鏡止水の構えで自分と対峙する
一期一会、その時に臨んだら
連なる石陣を単騎で駆け抜けるように、主客の交わりを楽しみたいものである
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